私は5年前に成人洗礼を受け、カトリック信者として生きる道を歩み始めました。それまでの私は、多くの日本人と同じように浄土真宗の家に育ちながらも、特に深い信仰を持っていたわけではありません。ただ、幼い頃にルーテル教会の幼稚園に通っていたこともあって、キリスト教という存在はどこか身近で、遠い異文化というよりは、静かに心の片隅に残っているようなものでした。
成人してからは神社神道に興味を持ち、神社巡りをしたり、日本の古典芸能に惹かれて雅楽の演奏を続けたりと、むしろ日本の伝統文化の中に身を置く時間が長かったように思います。そのおかげで、神職の方やお坊さん、天理教の信者の方など、さまざまな宗教に生きる人たちと自然に交流する機会にも恵まれました。宗教というものを、対立するものではなく、それぞれの人が自分の人生をどう生き、どう死を受け止めるかという「哲学」のようなものとして感じるようになったのも、この頃だったのかもしれません。
そんな私がカトリックに惹かれたきっかけは、コロナ禍で外出もままならない時期に、偶然テレビで見たサンティアゴ巡礼の番組でした。人々が長い道のりを歩きながら、祈り、悩み、喜び、そしてまた歩き出す姿に心を動かされ、「人はなぜ巡礼に出るのだろう」と考えるようになりました。その問いを抱えたまま、カトリック緑ヶ丘教会を訪れ、神父さんのお話を聞いたときのことは今でもよく覚えています。
宗教とはピラミッドを登るようなもので、どの面から登るか――つまりどの宗教に属するか――は違っても、登った先に見えるものは同じなのかもしれない。そんな言葉を聞いたとき、私は胸の奥がふっと軽くなるような感覚を覚えました。自分がこれまで触れてきた宗教や文化が否定されるのではなく、むしろそれらを通して育まれた感性が、カトリックの信仰ともつながっていくように感じられたのです。
それから私は洗礼を受け、いまは多くのカトリック信者とともに、祈りと賛美を大切にしながら日々を過ごしています。洗礼を受けてからの年月の中で、私の信仰を最も深めてくれたのは、共同体の中で祈りを共にする時間でした。特に、教会の祈り(聖務日課)に触れるようになってから、祈りが「生活の一部」として息づき始めたように感じています。朝の賛歌に心を開き、昼の祈りで歩みを整え、夕べの祈りで一日の恵みを思い返す。教会の祈りは、私の信仰を静かに支えてくれる柱のような存在です。
祈りは、特別な時だけに捧げるものではなく、生活の中にそっと寄り添ってくれるものだと感じるようになりました。忙しい日も、心がざわつく日も、静かに十字を切り、短い祈りを唱えるだけで、世界の見え方が少し変わることがあります。祈りは、私にとって「自分を取り戻す時間」でもあり、「神に心を開く時間」でもあります。また、賛美の歌や典礼の祈りは、雅楽を続けてきた私にとって、音楽が持つ力を改めて感じさせてくれるものです。音は言葉を超えて心に届きます。教会で響く典礼聖歌の一つひとつが、私の中の祈りを深め、共同体の一員として生きていることを実感させてくれます。宗教が違っても、音楽が人の心を結びつけるという経験は、雅楽でも教会でも変わらないのだと気づかされます。
私はこれからも、カトリック信者としての歩みを続けながら、これまで触れてきた日本の宗教や文化への敬意も大切にしていきたいと思っています。どれか一つを選ぶことで他を捨てるのではなく、むしろ自分の人生の中で出会ってきたものすべてが、いまの信仰を豊かにしてくれていると感じています。
祈りと賛美を通して、神に心を向けながら、静かに、確かに歩んでいく。その積み重ねの中で、私はこれからもキリスト者として生きていきたいと思っています。
H・M