神様のまなざしと似姿(子どもとともに)

雨上がりの曇り空の朝です。「神様、新しい朝をありがとうございます」と、祈りの一日の始まりです。家の前は通学路で小学生が歩いていきます。難しい顔の子(朝何かあったのかな?)友達と笑い楽しげな子、歩くのが精一杯の低学年の子、それを手で招きうながす高学年の子・・・そんな姿をみて、一人ひとりに「幸あれ、神様導いて下さい」と、思わず心で祈ります。年を重ねるとなぜか子ども達に目がいくこのごろです。

買い物に出かけると大人と手をつなぐ幼子(手を差し出すと信頼して繋いでくれる幸せ、幼子から手を繋いでくる幸せ)、叱られて涙ぐむ子、安らかに眠る子と、成長し愛され育っている姿に出会い、こちらも笑顔で幸せな気持ちになります。

私は長くカトリック幼稚園の教諭でした。子どもたちと出会い、共に過ごす中で多くの喜び、楽しさ、気づき、共感、許し、許されることを知り、神様とともに歩む道に導かれたのです。

生まれつき左の腕がない〇〇ちゃんは、笑顔で元気一杯です。はじめは「どうしてないの?」と子ども達がまわりに集まってきました。でも「左腕がなく生まれたのよ。でもあなた達と同じ元気で頑張り屋さんだよ」と話すと、すぐ「わかった」と素直に受け入れ、その後何もなかったようにいつも通り遊んでいます。ありのままの姿を受け入れる子ども達は神様の似姿です。

ある日、その〇〇ちゃんが砂遊びで土のついた手を洗おうとして洗面所で右手だけ蛇口の水で流していました。それを見て、一緒に遊んでいた仲良しの子が「はっ」としたように肩をぴょこんと上げ、「ごしごししなくちゃー」と言って、すかさずその右手を自分の両手で包むようにして洗っているのです。私はその様子を後ろから見ていて胸を熱くしました。

なんて心優しいのでしょう。気負いもなく自然なのです。

日常のなにげない場面に、思いやり、行動する姿があるのです。また△△ちゃんは、一緒に走っていた子がころび大泣きしていたら、同じように隣でわざと転び顔をのぞき、うなずいて慰めています。体を低くし同じ目線になり共感する姿は微笑ましく温かです。

ある日のこと、おやつの時間になり園庭で遊んでいた子ども達を保育室に入るように呼びました。数人の子ども達は何回呼んでも遊びに夢中で戻ってこないのです。みんな一緒に食べようと待っているのに・・・とイライラしました。遅くなりやっと戻ってきた数人に私は「待ちくたびれました。おやつはなし!」言って渡しませんでした。すると隣に座った子が自分のおやつを半分にして、そーっと渡したのです。私は自分の意地悪さ、子どもの気持ちも聞かず自分の思い通りにしようとする傲慢さに気づかされました。本当にごめんなさい、許してください。

子ども達と一人ひとりのありのままを受け入れて・・・と思っていたけど、子ども達も私たちのありのままを信頼して受け入れていたのです。神様の似姿、神様のまなざしを子ども達の中に見るのです。

園庭のマリア像の下には聖句が彫られています。
「神に愛された子として、主に倣う者となりなさい」エフェソ5章

そして最初に覚える神様の歌、典礼聖歌は「マリア様のこころ」です。
♪マリア様の心 それは青空 私たちを包む 広い青空
♪マリア様の心 それはかしの木 私たちを守る 強いかしの木
大好きな聖歌です(マリア様は優しさだけでなく、心強い方です。憧れ、尊敬します)。

祈ります
「主よ、あなたの似姿として創られた私たち一人ひとりを希望の光で照らしてください。どこにいても、どのような状態に置かれても私たちの思いをはるかに越えて働かれるあなたに希望を抱き続けることができますように。アーメン」(日々の祈りより)

M・S